• 初期の寄宿生たち。前列左四人目から大西熙、坪内逍遙、大隈英麿、今井鐵太郎、増子喜一郎。(1897年)
  • 第1回生卒業式記念写真。卒業生19名。大隈邸庭園温室にて。(1899年4月9日)
  • 第1回東都中学野球大会で優勝した早中野球部。中央右、山口大蔵部長、左、増子喜一郎幹事。(1910年)
  • 大正時代の校舎。
  • 第5代校長・中野禮四郎の勤続三五年祝賀会。(1932年)
  • 新講堂を興風館と命名。落成式に竹田宮を奉迎する全校生。(1934年)
  • 1935年頃から戦禍による焼失までの校門。
  • 巻脚絆(ゲートル)をつけての朝礼。(1941年頃)
  • 米軍の初空襲により校庭にて焼夷弾の犠牲となった当時4年生の生徒の報国団葬案内。(1942年4月18日)
  • 「滑空班」による校庭でのデモンストレーション。右、飯島武幹事。(1943年頃)
  • 戦後間もないころの生徒たち。
  • 早稲田高等学校第68回生卒業式。卒業生392名。(1966年)
  • 1979年1月、早稲田大学の系属校化に関わる調印がおこなわれた。左から村井資長前早大総長、清水司早大総長、大隈信幸早高理事長(いずれも当時)。
  • 全天候グランド(人工芝)竣工。(1991年9月)
  • 中学校舎(2号館)竣工。(2000年9月)
  • 管理棟(4号館)竣工。(2002年2月)

①創立~明治・大正期の本校

1892(明治25)年、増加する中学志願者への対応や東京専門学校(以下、専門学校。現・早稲田大学)の教育拡充を目指して、専門学校評議員会で尋常中学校設置が決議された。1895年11月3日、後に本校初代教頭となる坪内逍遙と専門学校教諭であった金子馬治、同校幹事の市島謙吉らが「早稲田尋常中学校設立の趣旨」草案を作成した。この日が本校の創立記念日となった。

翌1896年3月には新聞紙上に生徒募集広告を掲載し、同年4月に「早稲田尋常中学校」として開校した(生徒78名、教員17名)。大学よりも早く校名に「早稲田」の名を冠し、初代校長には大隈重信の養嗣子英麿がついた。創立に関わる諸経費は大隈と親交のある者や、専門学校関係者、牛込地区周辺の地縁者などからの寄付金によって賄われた。開校後も入学を希望する生徒が相次ぎ、1897年に在校生徒は480人にまで増加した。

開校当初の授業は1週30時間で行われ、最も時間数が多く割かれたのは「英語」であった(週8~9時間)。次いで「国語」「数学」となっている。また坪内が特に力を入れた倫理教育が教科書を用いず、「講話」という形で行われていた。

明治29年3月17日 東京朝日新聞生徒募集広告
大正10年第3学期試験問題(英語)

②創立者 大隈重信(1838~1922)

大隈重信は、肥前(現在の佐賀県)出身の明治・大正時代を代表する政治家。幕末期に蘭学や英語を学ぶ。維新後は新政府に出仕して、外交・財政分野で手腕を発揮。西郷隆盛や木戸孝允とともに参議に任じられ、政府内で中心的役割を果たした。

政治家としてはイギリス流議会政治の実現を目指し、その過程で伊藤博文ら長州閥と対立して「明治十四の政変」(1881年)で下野。翌年、立憲改進党を結党した。1898年には板垣退助と合同して憲政会を結党し、日本初の政党内閣である第一次大隈内閣(隈板内閣)を組織。1914年、護憲運動や前内閣の汚職による総辞職を受けて第二次内閣を組織した。

教育者としても知られる大隈は1882年に小野梓らと東京専門学校を創立。国民精神の独立を実現するための「学問の独立」と、有為の人材を育てるための「学問の活用」を重視していた。1895年、このような大隈の教育理念の下に坪内逍遙らによって本校が創立された。

大隈重信立像
第1回卒業生記念写真

③初代教頭・第2代校長 坪内逍遙(1859~1935)

本名雄蔵。本校創立に中心的な役割を果たし、初代教頭、二代校長を務めた。『小説神髄』に代表される文学理論の形成と『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』以降の小説創作を通じての近代文学革新運動の他、演劇革新運動(歌舞伎や新劇での戯曲創作、文芸協会の設立)やシェークスピア文学の研究・翻訳、また児童劇・ページェント(地域劇)の充実などで先駆的な活躍をした。

また、教育者としての業績も見逃すわけにはいかない。国語教科書の刷新、倫理教育の理論的著述といった一連の業績は、本校の創設以来、教頭、校長として屋台骨を支えてきた経歴を始発としている。本校に在職していた1895年~1903年の間(逍遙の40歳前後)、逍遙は文学作品をほとんど発表せず、本校の経営、ならびに実践倫理教育に邁進する。

「因幡うさぎ」は、逍遙の自筆原稿である。「演劇」「教育」という逍遙の活動における2つの特徴が結びついた児童劇の一つで、本校が所蔵するに至った経緯ははっきりしない。草書体で多くの朱筆書き入れが見られるという逍遙自筆原稿の特徴を、ここでも見ることができる。

曽宮一念「坪内逍遙肖像」
因幡うさぎ

④教頭・英語教諭 會津八一(1881~1956)

1881(明治14)年8月1日、新潟県新潟市生まれ。書家、歌人、東洋美術家。自らを「秋艸道人」と号し、自邸を「秋艸堂」と称した。「学規」は、秋艸堂で預かっていた故郷新潟の書生達に示したものである。

書家として有名であるが、左利きということもあり、尋常中学時代の習字の成績は芳しくなかった。この頃より俳句などに親しみ、卒業後『東北日報』などの俳句選者を務めた。1902年、東京専門学校高等予科入学のため上京、1903年、早稲田大学文学科に入学し、坪内逍遙、小泉八雲らの講義を受けた。卒業後、新潟県の有恒学舎の英語教諭となるが、1910年、坪内逍遙の招聘により本校英語教諭となる。本校教諭時代は、大柄で眼光鋭い容貌も手伝って生徒から恐れられていたようだが、美育部(いわゆる美術部)所属の生徒に目をかけるなどし、後に東洋美術史家で早稲田大学教授となる安藤更生(本校第21回卒業生)や画家として著名な小泉清(本校第20回卒業生)らを育てた。1918(大正7)年には教頭に就任したが1925年に辞職、その後は早稲田大学教授となり、主に東洋美術史を講義した。

早稲田大学時代の知人に古美術家の淡島寒月がおり、その影響もあって、本校招聘前の1908年以降、しばしば奈良を訪れ、古仏や古美術の研究に没頭するようになり、東洋美術史研究の礎を築いた。また、奈良を題材とした代表的歌集として『南京新唱』がある。

学規
會津八一肖

⑤戦中期の本校と「いのりの碑」

1942(昭和17)年4月18日、太平洋上の米軍空母を飛び立ったB-25爆撃機16機が、東京・名古屋・神戸などの諸都市を攻撃し、全国で45名の死者を出した(ドゥリットル空襲)。東京で攻撃の目標とされたのは、後楽園にある陸軍造兵廠東京工廠であったとされるが、実際には軍と全く関係のない地域が焼夷弾によって爆撃される結果となった。

この日、早稲田中学校は土曜日の正規の授業を終えていたが、午後の補習授業を受けるために4・5年生が残っていた。爆撃機が襲来した当時、校庭には500名ほどが居たが、4年生だった小島茂さん(46回生)が焼夷弾の直撃を受けて亡くなった。

1983年4月18日、この事件を記憶に留めて平和への誓いを新たにするため、本校第46回卒業生有志により校庭に「いのりの碑」が建立された。現在、本校では4月18日を「いのりの碑の日」と定めており、同じ学校で学ぶ人間に犠牲者を出した本校の生徒にとって、戦争を否定し、平和の尊さを確認する特別な日とされている。
※「いのりの碑」の見学を希望される場合は、事前に事務所へご連絡ください。日曜・祝日および年末年始等特定日は公開しておりません。

焼夷弾
いのりの碑(46回生 佐竹伊助氏作)

⑥戦後・昭和後半期の本校

アジア・太平洋戦争が終わった1945(昭和20)年は、本校創立50周年にあたる。創立記念日の11月3日、大隈講堂で記念式典が開催された。

本校周辺一帯は1945年5月の空襲で焼け野原となり、本校の校舎も多くが焼失していた。教室不足のため終戦直後の授業は2部制で再開されたが、戦後日本の歩みのなか、本校も復興への努力を重ね、やがて発展の道を進むことになる。

戦後の教育改革で六・三・三・四の新学校制度が成立し、1948年、本校にも新制高等学校が設置され、中学3カ年・高校3カ年の「早稲田中学校・早稲田高等学校」が発足した。1955年の創立60周年に向け、校舎の復旧が着々と進められ、生徒の活動も活発化していった。1953年に再興した新聞部による『早稲田新報』の復刊はその一例である。

1963年、新校舎が完成し、長野県富士見町の入笠山(標高1,955メートル)に所在する鈴蘭寮を購入、翌1964年に第二校歌が完成し、1965年の創立70周年を迎えた。

本校の林間学校は1964年から入笠山鈴蘭寮で実施されていた。なお、中学から高校卒業までかけて利根川沿岸を踏破する校外授業「利根川歩行」は、1965年に開始されている。第二校歌は、「東京音頭」「青い山脈」「王将」などの作詞家として著名な西條八十(本校第11回卒業生)が作詞を担当した。坪内逍遙が作詞した旧制早稲田中学以来の第一校歌とともに愛唱されている。

ともに大隈重信を創立者として仰ぐ早稲田大学と本校は、開校以来、兄弟校として不即不離かつ友好的な関係を保持してきた。さらに1979年から、本校は早稲田大学の系属校となり、結びつきを強めた。

また、1976年に3号館(理科教室・図書館)、1981年に興風館(体育館)、1988年に1号館(高校棟)及びプールが完成した。

古関裕而「第二校歌楽譜」
利根川歩行

⑦現在の本校

本校は1995(平成7)年に創立百周年を迎えた。百周年記念事業の一環として、入笠山鈴蘭寮の増改築が行われている。

入試制度は、1993年の98回生から高校での募集を停止、中高の完全六か年一貫教育制が導入された。また、2002年の110回生から中学入試が2回制となった。

学校行事は、1993年に、入笠山鈴蘭寮での林間学校が中1全員必修(1期で2クラスずつ)となり、伊豆下田鍋田海岸で行われた臨海学校が廃止された。さらに、翌1994年、学校行事の日程および内容が大幅に改定された。現在、体育大会は春に中学・高校に分けて校内で、興風祭(学芸大会)は10月1日前後に2日間で行われている。この他、高2で関西研修(3泊4日)、中3で地学実習(長瀞)、中1で鎌倉研修が実施されている。希望者対象の行事としては、中2から高2のサマーキャンプ、高1、高2の交換留学(オーストラリア メルボルン・グラマースクール(MGS))、12月に中2のスキー学校がある。

1989年には優等賞規定が改定になり、優等賞大隈賞が設定された。教育課程は、1994年より高2で文系・理系に分割する形が取られるようになった。

1990年、図書館の蔵書が5万冊を超えた。雑誌「興風」は1961(昭和36)年に復刊され、現在に至る。また、教員の研究発表の場として、紀要『早稲田―研究と実践―』が1971年より刊行されている。これは国語科が発行してきた『国語の研究』(1962年創刊)を前身としたものである。

2000年には現在の中学棟である2号館が、2002年には4号館(管理棟)が完成している。

教育課程は2004年以降検討がなされ、2012年に高3文系で数学、高3理系で国語が、2014年に高3文系社会で地理が、2016年に高3文系で理科(物理・化学)、高3理系で社会が順次必修化され、文系理系を問わず、全科目を学習する本校独自のカリキュラムが完成した。このカリキュラムは大学受験に対応するだけでなく、生徒に幅広い知識と教養を身につけさせ、進路選択の幅を広げることを目的としている。さらに、2017年の高1・高2より、ネイテイブによる英会話分割授業が導入された。

2020年11月、本校は創立125周年を迎えた。将来を見据え、生徒の教育環境の更なる向上を図る観点から、創立125周年記念事業として、新3号館・新興風館の建設に着手し、2023年2月に完成した。

年表

1895(明治28)年 11月3日坪内雄蔵(逍遙)、市島謙吉、金子馬治の三氏が集まり、大隈重信、同英麿、高田早苗、今井鉄太郎諸氏の賛同を得て、早稲田中学校創立を決定
1896年4月開校式を東京専門学校(現早稲田大学)講堂で挙行 生徒数78名
1902年9月坪内雄蔵校長就任
1921年5月校歌制定(坪内逍遙作詞、東儀鉄笛作曲)
1922年1月 大隈重信逝去、故大隈重信侯国民葬に生徒参列
1942年4月4月18日、本土初空襲。本校校庭にて生徒1名が犠牲となる
1945年5月空襲のため学校罹災
1948年4月新学校制度により早稲田高等学校開校
1951年3月学校法人早稲田高等学校となり、早稲田中学校を併設する(高校定員900名、中学校定員900名)
1963年6月長野県諏訪郡富士見町入笠山鈴蘭寮開設
1964年6月第二校歌制定(西條八十作詞、古関裕而作曲)
1979年4月早稲田大学の系属校となる
1988年4月高校校舎(1号館)竣工
1993年4月高校生募集停止
1995年10月創立100周年記念式典・祝賀会挙行
2000年9月中学校舎(2号館)竣工
2002年2月管理棟(4号館)竣工
2022年4月長野県諏訪郡富士見町入笠山鈴蘭寮閉寮
2023年2月体育館(興風館)、理科校舎(3号館)竣工
2023年9月グラウンド人工芝工事竣工